Masuk毎日がこんな調子なら、そりゃあ心も擦り切れる。
クラスでの俺の立ち位置は、いわば防波堤だ。 ヤンキーの冷やかしや無茶ぶりを真正面で受け止め、仲間を守る壁。 ……なんて格好いい言い方をすれば多少は気が晴れるけど、実際はただのサンドバッグでしかない。 笑って流す。黙って耐える。やり過ごす。 その繰り返しで、気づけば一日が終わっている。心が削れていく音が、自分にだけ聞こえる気がした。 だから俺は、一刻も早く学校から離れたかった。終業のチャイムが鳴った瞬間、誰よりも速く廊下を抜け、玄関からバス停へ一直線――そうしたいのに、結局バス停では発車まで待ち時間がある。
その待ち時間が、地味にきつい。 誰かと鉢合わせるかもしれない。 目が合うかもしれない。声をかけられるかもしれない。 「かもしれない」だけで胃が縮む。……つまり全力で逃げても、ゴールは地獄、みたいなオチが待っているわけだ。
そこで俺は親に頼んで、自転車を買ってもらった。「勉強も大事だし、塾にも通うから」
そう説明すれば、親も納得してくれた。
実際、その理由は嘘じゃない。 高校に入ってから週三で通い始めた進学塾が、南浦和駅の近くにあったからだ。 浦和駅前はオフィス街で、塾が少ない。 南浦和のほうが学生向けの進学塾が充実している。 バスだと浦和駅でいったん降りて乗り換え――それを考えると、駅近くの駐輪場に止められる自転車のほうが、ずっと現実的だった。 自転車通学を始めると、勉強仲間も次々に真似してきた。「かず、バスはやっぱ危険地帯だよな」
「だろ? こっちの方が安全だし、自由だし」そう言って俺たちは揃ってペダルをこぎ、放課後は一緒に塾へ向かうようになった。
片道数十分の距離が、ヤンキーとの鉢合わせに怯える恐怖と比べれば天国みたいに感じたのだから、我ながら単純だ。後に晏菜から聞いた話だが、浦和大鳳高校は入試の得点分布がきれいな二極性を描いていたらしい。
成績の良い層と悪い層が、見事に割れている――という意味だ。 晏菜の情報網の広さは相変わらず謎だけど、聞いて納得だった。確かに、俺たち勉強組とヤンキー軍団の学力差は天と地ほどある。
校内の空気で言えば、トップは当然ヤンキーで、次が部活で青春を謳歌する『中間層』。 井上さんなんかは完全にそっちのグループだ。 で、最下層が俺たち勉強組――そう感じてしまう。 悲しいが、肌感覚としてそうだった。体育の授業ではヤンキーたちの恰好のターゲットになる。
授業中は背中に消しゴムの切れ端が飛んでくる。 加えて、定期的に教室に現れては空気を押し潰す「なつさん」――あのヤンキー姉さん。 正直、一番の恐怖の源は彼女だった。 俺たちの毎日はシンプルだ。 学校に来て授業に集中し、なるべく波風を立てずに過ごし、チャイムが鳴ったら一目散に撤退。 トンネルの出口は見えない。見えないけど、走り続けるしかない。 入学したばかりなのに、俺たちは早くも夏休みの到来を待ち望んでいた。 青春ドラマなんて夢物語だ、と痛感していた。そんな日々の中で、一学期の中間テストを迎えた。
困ったことに、この学校には妙な風習があった。 主要五教科の合計点で上位十名を、職員室前の掲示板に貼り出すという悪趣味なイベントだ。こんな荒れた高校だからか、テスト自体の難易度は低め。
勉強一筋の俺たちにとっては拍子抜けするくらい簡単だった。 返却された答案は、どれもこれも満点。 正直、順位を見るまでもなく自分の位置は確定していた。……ただ、不安もあった。
全科目満点なんて目立ち方をしたら、ヤンキーに格好のネタにされる。
冷やかしのターゲットがさらに強化される未来が見えて、胃のあたりがきゅっと縮んだ。 けれど結局、俺は成績優秀の道を選んだ。隠しても意味がない。 言葉の暴力なんて、もう慣れっこだ――そう自分に言い聞かせるしかなかった。 四時限目が終わると、俺は仲間に声をかけた。「せっかくだし、前の方で見ようぜ」
「かずくん、なんか自信満々だね。私、ちょっと怖いんだけど」 「そうだよね。多江ちゃんは出身中学が有名校だから、逆にプレッシャーでしょ。お察しします」 「だから、からかわないでってば!」多江ちゃんが頬を膨らませる。
からかうつもりはなかった――いや、半分はからかっていたかもしれない。 俺の口調が軽すぎた。 ふと隣を見ると、井上さんの姿はもうなかった。 行動、早すぎ。さすが運動部。掲示板の前はすでに人だかりができていた。
ほとんどが一年生。 初めての発表だからか、好奇心で集まるのは当然だ。女子のグループの中から、ひときわ背の高いシルエットの一群が目に入った。
視線が合うと、その子がニッと笑って軽く手を振ってきた。 ……井上さんだ。 横の女子たちは「ヒューヒュー」と冷やかしている。 バレーボール部の仲間だろう。 俺は反射的に目を逸らしかけて、踏みとどまった。 逸らしたら負けだ。 何の勝負か分からないけど、負けた気がする。「かず、井上さんと仲いいよな。付き合ってんの?」
「いやいや、どうだろうな」とりあえずごまかしながら、俺は人混みを介して反対側に回った。
けれど井上さんの視線が、ずっと俺を追っているのは気づいてしまった。 ……それだけで妙に落ち着かない。やがて職員室から渋谷先生が姿を現した。
手には巻物みたいな順位表。 掲示板にピンで留め、くるくると広げていく。まずは二年生の発表。
一位は小鳥遊先輩、二位は上郷地先輩……名前が難しくて読めなかった。 今は関係ない。そして、いよいよ一年生。
……予想通り、俺は一位だった。 全科目満点なら当然だ。とはいえ、やっぱり心中は複雑だった。 「やったぜ」と叫びたい気持ちと、「終わった」の気持ちが同時に湧く。 ヤンキーに知られたら面倒になる未来しか見えない。 俺の足は自然と、人混みから離れていった。 その時だ。背中にビリッとした視線を感じた。
思わず振り返るが、人が多すぎて誰のものかは特定できない。 ただ、その「圧」だけが妙に生々しく、肌に残った。教室に戻ると、すでに井上さんが席に座って待っていた。
机に肘をつきながら、こっちを見て微笑んでいる。 ……あの笑顔、ずるい。「高松君、おめでとう。一位って本当にすごいね」
「ありがとう。まあ、テストが簡単だったから」 「簡単でも満点は取れないよ。私なんて、どこかで必ずケアレスミスするし」 「いや、井上さんは部活やりながらだし。俺は勉強一本だから」 「そうやってすぐ逃げ道つくるんだから」井上さんが少しむくれた顔をする。
そういう顔も見慣れてない俺には新鮮で、なぜか心臓が跳ねた。 井上さんは少し声を落とした。「……さっき手を振ったの、迷惑だった?」
「全然。むしろ……嬉しかったよ」言った瞬間、自分でも赤面しているのがわかる。
しまった。 こういう返し、もっとクールにできるはずだろ俺。 けれど井上さんは、嬉しそうに目を細めた。「よかった。みんなにからかわれてるからさ、ちょっと心配してたの」
「俺も、仲間に冷やかされたよ」 「やっぱりそうなんだ」井上さんがクスクス笑う。
俺は笑えない。 からかわれるのは慣れてるはずなのに、彼女の前だと変に意識してしまう。 そして井上さんは、さらっと距離を詰めてくる。 机に肘をついたまま、俺の顔を覗き込むようにして言った。「ねえ、高松君」
「な、なに?」 「私ね。高松君と話すと落ち着くんだ」胸の奥が、変な音を立てた。
俺は咄嗟に笑ってごまかそうとする。「俺と? いや、俺、女子と話すの慣れてないだけで……」
「それがいいの。素直な感じがして」言い方が直球すぎて、俺は目を泳がせた。
井上さんはそれを面白がるみたいに笑って、さらに続ける。「男子って、見栄張ったり強がったりする人が多いでしょ? でも高松君は、ちゃんと本音で話してくれる気がする」
「……本音っていうか、俺はただ、取り繕うのが下手なだけだよ」 「それでもいい。私はそういうの、嫌いじゃない」……ずるい。
そういう言葉を、平気で言えるのがずるい。「……井上さんこそ、勉強も部活も両立しようとしててすごいと思う」
「本当はね、入学してからしばらく迷ってたんだ。部活に力を入れるか、勉強に切り替えるか。レギュラー狙うなら今が勝負だし。でも将来のことを考えると勉強も捨てられない。だから両立するしかないんだって思った」 「難しい選択だな」 「でも、高松君を見てるとね……ちょっと頑張ろうって思えるの」 「俺を見て?」 「そう。だって、一人で黙々と勉強して結果を出してるじゃない。すごいよ」俺は、視線を落とした。
褒められるのは嫌いじゃない。 でも、俺の努力の根っこはそんな綺麗なものじゃない。「俺は……逃げ場が欲しかっただけだよ。勉強して目立たなくすればヤンキーに絡まれにくい気がしたから。でも結局、かえって目立った気がする」
「……そんなことだろうなって思ってた」井上さんは、笑わなかった。
その代わり、少しだけ真剣な目になった。「でも、それでもやるって決めたんでしょ? 逃げてもいいのに、逃げなかった」
「……結果的にね」 「結果でもいい。私はそれ、すごいと思う」その言葉が、妙に刺さった。
俺は何か返そうとして――返せない。 そこへ、勉強仲間が戻ってきて、いつもの冗談混じりの会話に巻き込まれる。 笑い合う時間は楽しかった。 楽しかったはずなのに、頭の片隅にはずっと井上さんの言葉と、あの距離感が残っていた。……気づけば、ヤンキーの存在よりも、彼女の視線の方が勝っていたのかもしれない。
だが、現実は甘くない。 一人、また一人とヤンキーが戻ってきて、教室の空気は徐々にいつもの緊張感に染まっていく。 そして――廊下から、ペタペタと足音が近づいてきた。 その足音の主こそ、さっき俺に「圧」だけを残していった存在。 『なつさん』だ。 教室の入り口で、なつさんの視線が止まる。 確実に、俺を捕らえていた。 ……井上さんとの会話で、一瞬だけ夢を見た俺は、すぐに現実へ引き戻されることになる。彼女の目が、じわじわとこちらを射抜いてくる。 あの視線には「はい」以外の選択肢は存在しない――そう言い切られているようだった。 教室の空気は重たく沈み込み、俺の喉は砂漠みたいにカラカラになる。 息をするたび肺がぎしぎし鳴りそうで、舌先すら思うように動かない。 このまま黙っていたら、間違いなく彼女の「圧」に押し潰される。 ……だからこそ。 俺は心の中で深く息を吸い込み、ほんのわずかに視線を上げた。「……わかりました。ただ……」 わざと間を置く。 これは譲歩じゃない。 条件を提示するための布石だ。 どんなに相手が強くても、こちらが完全に呑まれたら終わりになる。 俺の立場は一方的に不利になり、彼女の都合に振り回されるだけだ。 窓の外からは、昼休みを楽しむ生徒たちの笑い声が聞こえる。 サッカー部がグラウンドでボールを蹴る音も混じっている。 けれど、この教室だけは別世界だった。 俺と彼女だけの、閉ざされた空気が漂っている。「普通に嫌なんですけど」 つい、本音が口をついて出る。「あー!? 俺に歯向かうのか?」 次の瞬間、胸ぐらをつかまれた。 しかも手加減なし。 肺の奥から息が押し出されるような力だった。 逆らえば、後々もっと面倒になる。 そう直感した瞬間、俺の脳は反射的にフル回転を始める。 もし教えることを了承したとして……彼女は素直に勉強してくれるのか? ――するなら、成績を上げる手段を考える。 ――しないなら、目的は果たせず、むしろトラブルが増える。 さらに、教えても成績が上がらなかったら……。 ――上がれば継続。 ――上がらなければ、俺が責められる。 いやいや、責められるって何だ。 ……命が危ないは言い過ぎだろう、と自分で突っ込みつつも、ヤンキー姉さんの圧を思えば、その想像すら笑えなかった。 ……こういうときは「行動する前に、今なにをすべきか考える」。 中学時代の失敗から学んだ、俺なりの鉄則だ。 状況を整理する。 一、逃げ道はない。了承するしかない。 二、了承した 以上、彼女が納得するだけの結果が必要。 三、問題が出たら、その時点で対策を考える。 結論――要求を受け
俺の名前を呼んだのは、ヤンキーたちが「なつさん」と呼んでいる、隣のクラスのヤンキー姉さんだった。 身長は俺より少し低いくらい。 たぶん百七十センチ前後だろう。 視線が合った瞬間、背筋がビクリと跳ねたが、緊張のせいで顔の細部までは認識できなかった。 代わりに視線を落とすと、ひざ下まであるロングスカートと、入学からまだ三か月だというのに完全に潰れ切った上履きの踵が目に入る。 形を成していないそれは、まさに「ヤンキーアイテム」としての存在感を放っていた。 彼女が俺の名を呼んだ瞬間、勉強仲間は全員、反射的に俺から距離を取った。 パッと見ただけで分かる、完全なる「関わりません」のポーズ。 まるでパブロフの犬だ。 条件反射にもほどがあるだろ。 気がつけば俺だけが取り残され、彼女がこちらへ迫ってくるのを待つ形になっていた。 パタパタと上履きを鳴らし、肩を左右に揺らして歩いてくる。 笑顔を浮かべているのに、それが逆に恐怖を増幅させる。 教室全体の空気が、一気に重くなった。 中学時代、男子ヤンキーと口論になったことはあったが、女子ヤンキーと正面から対峙するのは慣れていない。 いつの間にか、背中は汗でじっとりと濡れている。「おまえが高松和也か」 俺のすぐ後ろに立った彼女が、低い声で確認する。 俺は後ろを向いて答えた。「そ、そうですけど(いや、知ってるくせにその確認必要?)」「ちょっと顔貸してくんねぇ」「……なんでしょうか」 彼女は周囲を一瞥し、さらに声を落とす。「ここじゃ面倒くせぇから、ちょっと来いや」「いや……嫌なんですけど」「来いって言ってんだよ!」 胸ぐらをつかまれ、至近距離で怒鳴られた瞬間、教室は水を打ったように静まり返った。 誰一人口を開かない。 咳払いすら聞こえない。 たぶん、誰もが息をする音すら殺していた。 俺は知っている。 こういう場面で逆らえば、尾ひれがついて噂になり、話は思わぬ方向へ転がる。 中学で何度も痛い目にあった経験が、ここは従った方がいいと告げていた。「……了解です」 しぶしぶ立ち上がると、椅子を引く音だけがやけに響く。 彼女はうなずき、出口へ向かった。俺も仕方なく後を追う。 途中、多江ちゃんと目が合った。 俺が「大丈夫だ」と目配せすると、多江ちゃんは小さくうなずき、ほかの仲間たち
俺たちが通っていた進学塾『浦和ゼミナール』は、県内でも最大規模を誇る現役高校生用の塾だった。 入口のガラス扉には、いつも新しいチラシが貼られている。 そこには毎年のように「東大○名、早慶○名」と、やたら景気のいい数字がでかでかと踊っていた。 まるで夢の切符を配っているみたいに。 ……もっとも、その「夢の切符」を本当に受け取れるのは、県立浦和や一女、大宮、市立浦和みたいな、県内でも屈指の進学校の生徒たちだ。 つまり俺たちみたいなその他大勢がどれだけもがいたところで、結局はそれなりの大学に落ち着く。 そういうものだ――と、俺はずっと思い込んでいた。 ただ一人、例外がいる。 勉強仲間の中で唯一、進学校出身の小倉多江ちゃん。 彼女だけは、俺たちの中で別格の存在だった。 俺の高校生活の目標は単純だ。 名の知れた大学に引っかかれば御の字。 それに加えて、自分のやりたいことを学べる学科があれば言うことなし。 当時、うちの高校の名前を出すと、決まって「大鳳? ああ、あの田んぼの中の」と返された。それが世間の大鳳高校の扱いだった。 根拠のない偏見だと頭では分かっているのに、そういう言葉に俺たちは簡単に一喜一憂してしまう。 大学に進んだら、趣味と勉強を両立して、いずれは家業を継ぐんだろう……そんな未来を、ぼんやり思い描いていた。 結論から言えば、まったく違う人生になったわけだけど。 さて、『浦和ゼミナール』から二軒隣に『バーガークイーン』というハンバーガーショップがあった。 俺たちの定番の溜まり場である。 授業が終わるのは夜の九時ごろ。街の空気が冷えてきて、店のガラス窓が外気で少し白く曇る時間帯だ。 店内は脂とコーヒーの匂いが混じっていて、妙に落ち着く。 騒がしいはずなのに、ここにいると「学校の息苦しさ」が一枚、剥がれる感じがした。「ねぇ、かずくん。さっきの化学の問題なんだけど、ここがどうしても分かんなくて」 多江ちゃんは、塾で配布されたプリントを広げて俺の前に置く。 インクの匂いがまだ新しい。 その指先が、ほんの少し震えている。 たぶん寒さのせい……と言いたいけど、違う。 多江ちゃんは、こういうときだけ妙に真剣で、肩に力が入る。 分からないところを「分からない」と言うのが、彼女にとっては簡単じゃないのだと、俺は知っている。
毎日がこんな調子なら、そりゃあ心も擦り切れる。 クラスでの俺の立ち位置は、いわば防波堤だ。 ヤンキーの冷やかしや無茶ぶりを真正面で受け止め、仲間を守る壁。 ……なんて格好いい言い方をすれば多少は気が晴れるけど、実際はただのサンドバッグでしかない。 笑って流す。黙って耐える。やり過ごす。 その繰り返しで、気づけば一日が終わっている。心が削れていく音が、自分にだけ聞こえる気がした。 だから俺は、一刻も早く学校から離れたかった。 終業のチャイムが鳴った瞬間、誰よりも速く廊下を抜け、玄関からバス停へ一直線――そうしたいのに、結局バス停では発車まで待ち時間がある。 その待ち時間が、地味にきつい。 誰かと鉢合わせるかもしれない。 目が合うかもしれない。声をかけられるかもしれない。 「かもしれない」だけで胃が縮む。 ……つまり全力で逃げても、ゴールは地獄、みたいなオチが待っているわけだ。 そこで俺は親に頼んで、自転車を買ってもらった。 「勉強も大事だし、塾にも通うから」 そう説明すれば、親も納得してくれた。 実際、その理由は嘘じゃない。 高校に入ってから週三で通い始めた進学塾が、南浦和駅の近くにあったからだ。 浦和駅前はオフィス街で、塾が少ない。 南浦和のほうが学生向けの進学塾が充実している。 バスだと浦和駅でいったん降りて乗り換え――それを考えると、駅近くの駐輪場に止められる自転車のほうが、ずっと現実的だった。 自転車通学を始めると、勉強仲間も次々に真似してきた。「かず、バスはやっぱ危険地帯だよな」「だろ? こっちの方が安全だし、自由だし」 そう言って俺たちは揃ってペダルをこぎ、放課後は一緒に塾へ向かうようになった。 片道数十分の距離が、ヤンキーとの鉢合わせに怯える恐怖と比べれば天国みたいに感じたのだから、我ながら単純だ。 後に晏菜から聞いた話だが、浦和大鳳高校は入試の得点分布がきれいな二極性を描いていたらしい。 成績の良い層と悪い層が、見事に割れている――という意味だ。 晏菜の情報網の広さは相変わらず謎だけど、聞いて納得だった。 確かに、俺たち勉強組とヤンキー軍団の学力差は天と地ほどある。 校内の空気で言えば、トップは当然ヤンキーで、次が部活で青春を謳歌する『中間層』。 井上さんなんかは完全にそっちのグループだ
入学して数日が経つと、ようやく教室の空気にも慣れてきた。 とはいえ「慣れた」というのは、危険がないと理解できたわけじゃない。 単に、危険がどこに潜んでいるかを身体が覚えただけだ。 教室の後ろの壁には、拳大にへこんだ跡が残っていた。 誰にも聞いていないが、聞く必要もなかった。 誰かが、何かの拍子に、そこへ拳を叩きつけたということだけは、傷そのものが雄弁に語っていた。 担任も、それについては何も触れない。触れないという選択そのものが、この教室の力関係を物語っているようだった。 ヤンキーたちの視線をなるべく避けながら、それでも俺と同じように大学進学を目指すやつらが何人かいることが分かった。 俺は彼らを心の中で「勉強仲間」と呼び、自然と一緒に過ごす時間が増えていった。 勉強の話ももちろんする。 でも、話題の中心はいつだってひとつだった。 ――いかにしてヤンキーたちと関わらずに済むか。 いや、むしろそれが最重要テーマだったと言っていい。 触らぬ神に祟りなし。俺たちはただ静かに、そして目立たず、この三年間をやり過ごす……はずだった。 まず最初に仲間となったのは、坂本巧。偶然にも彼の兄と俺は小学生の頃から趣味仲間で面識があった。 その縁もあって、坂本とは最初から妙に自然と距離が縮まった。「おう、高松。よろしくな」 初対面のはずなのに、すでに「知ってるやつ」みたいな温度で話しかけてくる。 その雑さが、逆にありがたかった。 次に佐々木大輔。元気いっぱいでクラスのムードメーカー……と言えば聞こえはいいが、声が無駄にでかくてデリカシーが薄い。 本人は悪気がないのが厄介で、ヤンキーの神経を逆なですることが多い。俺たちにとっては常に地雷を抱えているようなものだった。 |鵜坂《うざか》博之は、この高校の目と鼻の先にある大久保中学の出身で、実家がこの周辺に多くの田畑を持っているらしい。 牧野宏は浦和駅から京浜東北線で北へ二駅の与野駅前で中華料理屋を営む家の息子。 雨宮さくらちゃんは坂本と同じ中学出身で、後に――まあ、それはまた先の話だ。 そして、小倉多江ちゃん。 多江ちゃんについては、のちほど詳しく説明する。 なぜか俺は女子にだけ「ちゃん付け」で呼んでしまう癖がある。 多江ちゃんも、さくらちゃんも、それが自然に口から出た。 自分でも理由
◇◇ 入学式当日 ◇◇ 決意も新たに、俺は鏡の前で頬を二、三発、軽く叩いた。 痛みというより「音」でスイッチを入れる感じだ。(よし。今日からだ) 登校の準備はできている。制服も、鞄も、書類も、靴も。 あとは母が部屋から戻ってくるのを待つだけ――のはずなのに、やけに落ち着かない。胸の奥がそわそわして、手持ち無沙汰で机の端を指でなぞってしまう。 俺は、人生をリセットするためにここに来た。 中学時代の“闇”を引きずらず、誰にも知られず、ただ静かに三年間を走り切る。 目立たず、揉めず、勉強して、大学へ行く。 そのための高校生活の始まりが、今日だ。 母が戻ってくると、俺たちは一緒に家を出た。 最寄りのバス停までは徒歩で数分。通学そのものは、たぶん不便じゃない。たぶん――。 俺と母は、バスが混むのが嫌だった。できれば座りたい。 だから少し早めに家を出て、『大久保浄水場』行きのバスに乗り込んだ。 大久保浄水場といえば、荒川の水を飲み水として市内に供給する場所で、小学校の遠足で見学したことがある。巨大な設備と、消毒薬みたいな匂いだけが妙に記憶に残っている。 そんなことを思い出すあたり、俺はやっぱり緊張していたのだろう。 バスに乗ると、俺と母は別々の席に座った。 時間が早いとはいえ、車内にはそれなりに人がいて、並んで座れる空席がない。 俺は窓側の席に腰を下ろし、窓枠に頬杖をついて外を眺めた。 十数分もすると、車窓の景色は都会から田園風景に変わっていく。建物の密度が薄くなり、空が広がり、畑が増える。荒川沿いの風のせいか、木々がどれも同じ方向に少しだけ傾いて見えた。 ――俺は、たぶん車内の景色をちゃんと見ていなかった。 緊張と興奮で、視界は外に向いているのに頭の中は別のことばかり考えていた。 このバスに、同級生になる人間が何人乗っていたのか、まったく覚えていない。 『大鳳高校前』で降りると、通学路は桜並木になっていた。 花が散り終わり、緑色の葉桜に染まった枝が風に揺れている。春はちゃんと進んでいるのに、俺だけがその流れに置いていかれそうで、ほんの一瞬、胸がざわついた。 校門をくぐり、校内の掲示板を見る。 そこには、各クラスの担任名と所属生徒の氏名がずらりと書かれていた。 一組、担任は渋谷先生。 一組という響きだけで、なぜか「幸先